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【8】 シャー・ルク・カーン物語 [シャー・ルク・カーン物語まとめ]

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わくわくしながら切符を買う列に並び、暗い映画館のキーッと鳴ってバタンと開く椅子に座り、大きなスクリーンで見る映画は、シャールクを虜にしました。幼い頃のシャールクのアイドルは当時のトップ女優ムムターズとサイラ・バヌー。一局しか無かったオール・インディア・ラジオから聞こえてくるムムターズのダンスナンバーに合わせて、シャールクは腰をくねらせ踊ったものでした。

I like Saira in the Bhai Batur number from Padosan. I would get into a bathtub and perform that song. サイラの映画『Podosan』のミュージカルシーン「Bhai Batur」が好きでね。お風呂の中であの歌の真似をしたものだよ。


I loved Mumtazji in the film Brahmachari. 映画『Brahmachari』のムムターズも大好きだった。


シャールクが演じる映画スターの物真似は近所でも学校でも評判を呼び、学校行事の際に先生に命じられてステージでラージ・カプールの物真似をしたこともありました。家のバルコニーにシーツでカーテンをつり、友人たちと劇ごっこもしました。そんなとき、シャールクは自らシナリオを書き、出演し、演出もしたのです。

もう少し成長してからはアミターブ・バッチャンに夢中になりました。シャールクの子ども時代、インドは政情不安が続いていました。パキスタンとの戦争でインドはバングラディシュの独立を助け、両国の関係はいつまでもこじれました。食糧事情の悪化によって庶民の生活は苦しく、貧富の差は広がるばかりでした。インド政府は、1974年に地下核実験をおこない、世界で6番目の核保有国となりました。スラム街の取り壊し、人口抑制のための不妊手術実施などのガンディー首相の強攻策は国民の反発を招き、1975年から77年の2年間は国に非常事態宣言が出されたほど反政府運動が高まりました。ファティマはインディラ・ガンディー首相を支持し、政治集会で何度か会ったこともありました。
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このような不穏な社会情勢の中、アミターブ・バッチャンの演じる「怒れる若者」像は、70年代後半から80年代初頭にかけて一世を風靡したのでした。シャールクは姉のシェーナーズと彼女のクラスメイトで後にボリウッド女優になるアムリタ・シンの学校が終わるのを待ちかね、三人で飛ぶように映画館に行って1ルピー75パイサの一番安い最前列に並んでアミターブの映画を見ました。映画が終わるとアムリタの家に行き、アミターブのセリフを真似したり、映画について話したりして過ごしたのでした。

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シャールクは「アミターブのようになること」を夢み、彼の黒豹のような足取りやクールなしゃべり方を真似ました。アムリタの方は「アミターブの相手役になること」をうっとりと夢見ました。ここまではティーンエイジャーによくあることなのですが、この二人が特別なのは、二人とも後にこの夢を実現してしまうということでした。

【9】シャー・ルク・カーン物語 [シャー・ルク・カーン物語まとめ]

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印パ分離政策に反対したため、パキスタン政府のブラックリストに載っていたミールは、長らく故郷に帰ることができませんでした。姉が亡くなったときも、”Brhamachari”というあだ名を持つ大好きだった兄が亡くなったときも帰郷を望みましたが、ビザの申請は却下されてしまいました。

Brhamachariとは古代インドのヴェーダに規定されている人生の4つの時期の一つ「学生期」に由来します。
 「学生期」「家住期」「林住期」「遊行期」とあるうち、思春期頃から結婚するまでの間の時期を指す言葉で、禁欲期とも言われます。

ミールの兄弟のBrhamachariは生涯結婚せず、人前で歌ったり女装をしたり物真似をしたりと芸事が好きで、親族の中では異色の存在だったそうです。ミールや親戚たちは、シャールクが誰よりもこのBrhamachariの血を引き継いでいると思っていました。

70年代後半になって、「家族の全員が亡くなる前に帰国を認めて欲しい」というミールの再三の懇願がようやく功を奏し、パキスタンへの入国ビザがおりました。1978年、ミールは12歳のシャールクを連れ、30年前に歩いてデリーへ向かったその道を、今度は鉄道で逆に辿ったのでした。アムリトサルから小さな国境の町アタリへ行き、緩衝地帯を歩いて横切ってパキスタン側のワガーで入国する…これが当時唯一のインド・パキスタンの国境越えルートでした。

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シャールクは、初めて出合うペシャワルの親戚たちに暖かく迎えられました。Haveliという形式の複合住宅に、何世代も何家族もが一緒になって賑やかに暮らしていました。シャールクは同年代の従兄弟達とたちまち打ち解け、カージャル(黒いアイライン)を入れ、髪に花を飾って女の子の格好をして踊ったりしてバカ騒ぎを楽しみました。色白で美しい従姉妹たちは、外出の時には顔を隠していましたが、家の中ではお化粧をして着飾っていました。シャールクは皆と一緒にバザールへ行ったりパキスタン映画を見たり、アフガニスタンのカイバル峠やカブールにまで観光に出かけたりして一月程を過ごしたのでした。
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2年後、シャールクとミールは再びペシャワルを訪れました。ローカル列車の長旅、予約なしで行き当たりばったりに泊まる安宿…ミールとの旅はいつもどちらかと言えば快適とは言いがたいものでした。しかも今回のペシャワル訪問は、前回のように屈託なく楽しめるものとは全く異なっていました。ペシャワルの親戚たちは、ミールの生家の資産の相続権を放棄する書類にサインさせるためにミールを呼び寄せたのでした。子どもだったシャールクは後に父親の友人から聞かされるまでそんなこととは知りせんでした。ただ、父親が寡黙で、ときに怒りの表情を見せることをいぶかしく思っただけでした。誠実で優しいミールにとって、故郷に戻りたい、家族に会いたいという長年の悲願がようやく叶えられた末に、このような形で肉親から分離を求められた悲しみはどれほど深かったことでしょう。

ペシャワルの従兄弟たちは今のシャールクを誇りに思い、子どもにシャー・ルクと名づけたりしています。シャールクも彼らが訪ねて来れば大切にもてなしますし、「父親がペシャワル出身で半分パタン人の血を引いていること」を誇らしげに度々口にします。しかしシャールク自身はこのとき以来、二度とペシャワルを訪れていません。多忙なせいかも知れません。あるいは「良くない感情が伴うものや場所、人からはなるべく遠ざかるように」という母の教え、「僕は人をすぐに許すが、決して忘れはしない」などの言葉からシャールクの心情を伺うことができるかも知れません。

さて、デリーに戻り、再び日々の暮らしが戻ってきたある日、仕事から帰ってきたミールは家族にこう言いました。

"Yaara, doctor saab kah raha hai mujhe cancer hai"


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《続く》

《おまけ》

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ここで言っておきたいんだけど、僕の父親は実はパキスタン人なんだよ。ペシャワル出身でね。だから僕もパタン人なんだ。そんな感じしないけどね。体格が貧弱で。でもパタン人だよ。多少身長が不足してはいようとも。

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【10】シャー・ルク・カーン物語 [シャー・ルク・カーン物語まとめ]

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「ねえ君たち、医者は私が癌だと言うのだよ」

僕は癌がどんな病気かを知っていた。癌で亡くなった人の話も聞いたことがあった。ただ、自分の家族とその病気を関連づけて考えたことがなかった。父さんが癌だなんて、まったく考えられなかったんだ。人は皆、自分の身に起こるまで本当にはそのことに考えが及ばないものだ。


長引く口内炎に悩まされ、医者を訪れたミールは、進行した口腔癌だと診断されたのでした。ペシャワルから戻ってわずか数週間後のことでした。口の傷は日ごとにミールを苦しめました。口の中が腫れ上がり、出血し、身体が曲がりそうな痛みで、徐々に物が食べられなくなりました。やがて話すこともできなくなり、コミュニケーションは筆談になりました。

入院したミールの病室は4人部屋でした。シャールクは毎日病院を訪ねました。シェーナーズは女子大学の寄宿舎に入っており、休みの日になると父を見舞いました。シェーナーズは20歳で、父親を誰よりも愛していました。父譲りのスラリとした体つき、白い肌に透き通った瞳を持ち、夢見がちなところも父親そっくりでした。シャールクとシェーナーズにとって、ミールは文字通り見上げるような存在でした。今は少し具合が悪いけれどもやがて克服すると固く信じて疑いませんでした。

病室のドアを開けると、父はシャールクと目を合わせ、話せなくなった分豊かになった表情で、目玉をくるりと回して見せました。「やれやれ、きついね。だが何とかやっているよ。」そう言っていました。

時には4つのベッドの内の一つが空になっていることがありました。それは、ともに病気と闘っていた人がついに力尽きて肉体を離れたことを意味していました。ミールのベッドが空になっていたときには、思わずドキッとしましたが、そんなとき、父は放射線療法でベッドを離れていたのでした。ミールは顔面への放射線治療にも関わらず、豊かな黒々とした髪を失うことはありませんでした。

治療費は高額で、1本5000ルピーの注射を月に10本以上射たなければなりませんでした。費用をなんとかを捻出するため、ファティマは昼も夜も働きました。民生委員として貧困層や青少年の相談を終えると、義弟と協働で経営するレストランで仕事をしました。

こうした努力の甲斐もなく、ミールの頑健なパタン人の肉体は、半年ほどかけて少しずつ滅んでいきました。筆談のペンを持つこともできなくなってからは、ジェスチャーで意思を伝えました。シャールクもジェスチャーで返しました。静かな病室で二人は悲しいジェスチャーゲームをしました。

そんなになっても、シャールクの希望は消えませんでした。父はスーパーヒーローだから、奇跡がきっと起きると思っていました。実際ミールは驚くべき生命力で回復の兆しを見せ、一時帰宅が許されたのでした。久しぶりに家に帰り、髭を剃ってアイスクリームまで食べてシャールクを安心させました。

次の日ミールは病院に帰って行きました。ミールの病院生活はすでに日常となってきており、一時帰宅で安心したこともあり、その日シャールクは見舞いに行きませんでした。

その夜のことです。午前2時半、ファティマは病院からの連絡で起こされました。ミールが亡くなったという知らせでした。ファティマはシャールクを起こし、「お父さんが会いたいそうよ」とだけ言いました。手伝いの人にフィアットを運転してもらって病院に行きました。

遺体安置室の中央でミールは一人で眠っていました。身体はすでに氷のように冷たく、シャールクはすごい勢いで父親の足をこすり、温もりを取り戻そうとしました。優しくからかうような光が消えた目、耳からぽとりと落ちた血の雫…このとき目にした父の姿はシャールクの記憶にいつまでも焼きつきました。

夜が明けて一旦帰宅することになりました。運転を頼んだ人はもう帰ってしまっていたので、シャールクはごく自然に運転席に座り、母を乗せて家路につきました。しばらくしてファティマは今気づいたように言いました。「あなたいつから運転ができたの?」 シャールクは答えました。「たった今だよ。」

シャー・ルク・カーン、14歳と10ヶ月。思春期の只中の、重すぎる通過儀礼でした。


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【11】シャー・ルク・カーン物語 [シャー・ルク・カーン物語まとめ]

ミール・タージ・ムハンマド・カーン、最年少の独立闘士、ついに開業しなかった弁護士、大きな成功に恵まれなかったビジネスマンにして作品を残さなかった詩人、息子という作品の桁外れの成功を目にすること無く、1980年9月19日死去、享年52歳。

ミールの遺体が無言の帰宅をした頃、ファティマはレディ・シュリ・ラム大学までシャールクに姉を呼びに行かせました。シェーナーズは、父の指示により、寄宿生活を送りながらそこで学んでいたのです。弟を見て不思議がるシェーナーズに、シャールクはろくすっぽ目も合わせず、二人はリクシャーに乗って家に帰りました。「お父さんが死んだと言うと取り乱すだろうから、まずは家に連れて帰るように」と母ファティマから言われていたのです。
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当時住んでいたサフダルジュングの小さな家に着くと、そこは大勢の人々が出入りし、ざわついていました。家に入ったシェーナーズが目にしたのは、白い布にくるまれて部屋の中央に横たわる最愛の父の遺体でした。彼女はそのままゆっくりと、根元に斧を打ち込まれた木のように倒れて行きました。激しく床に身体を打ちつけ、あたりに置いてあったグラスは砕けて飛び散りました。シェーナーズがこのときに受けた衝撃はあまりに大きく、彼女の後の人生を変えてしまうことになりました。健康で知性豊かな、よく笑う娘だったシェーナーズは、このとき以来精神の均衡を失ってしまったのです。

シャールクは涙を見せませんでした。中学2年生のシャールクは、棺をかつぐ6人の内の一人を任され、自分が急に大人になったような気がしました。がちがちの父権社会であるインドで、一家から父親が失われるということは最悪の悲劇でした。悲しみと戸惑いと、父親を奪っていった運命への大きな怒りをたぎらせつつも、唯一の男性として、家族を支えていかなければと気負ってもいました。長身のミールの長い棺を土に埋葬する時、そんなシャールクの心をなだめるかのように、静かな雨が降りました。

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《続く》


《おまけ》 iamsrk@Twitter
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30 yrs ago this day my dad died. never said wot i should be.i want to be a gentle & funny father more than any other title. miss him lots.
4:11 PM Sep 19th, 2010 via web
30年前の今日、父が死んだ。何になれとも言われなかった。他のどんな立場よりも、優しくて面白い父親になりたい。父がとても恋しい。

on days when issues surround me that need strength..i wish he was here to beat up all.my dad was the strongest...& the handsomest.
2010年9月19日 16:16:11 via web
色々なゴタゴタに取り巻かれ、強さが必要なとき、父がいて皆をやっつけてくれれば良いのにと思う。父さんは誰よりも強く、最高にハンサムだった。

i dont remember my dads skin...his touch or his voice anymore. only his eyes...& his smile..full of promise that he will always be there. 2010年9月19日 16:19:25 via web
父の皮膚がどんな感じだったか思い出せない。手触りや声も忘れてしまった。父の眼と笑顔だけは忘れない。「いつもいるからね」という約束に満ちたまなざし。

one last thing before i miss my dad even more. all of you go & give a hug to ur dads once a week, without reason. fathers like that. i know. 2010年9月19日 16:27:14 via web
ますます父が恋しくなってしまうからこれで最後。皆自分の父親のところに行って、週に一度は抱きしめて上げて。理由もなくね。父親はそういうのが好きだ。僕にはわかる。

【12】シャー・ルク・カーン物語 [シャー・ルク・カーン物語まとめ]

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ミールが亡くなり、シャールクは詩を書くことをやめました。喜んで書き留めてくれた父がいなくなり、書きたい気持ちが無くなったのです。父の死という大きな衝撃から、シェーナーズは立ち直ることができませんでしたが、シャールクはやがて悲しみを乗り越えていきました。このことは第一に母ラティーフ・ファティマという稀有な女性の存在が大きいと言えます。

ミールの闘病生活で、家族のささやかな資産は文字通りすっからかんになりました。ファティマは子どもたちに教育を受けさせ、生活を営んでいくために、昼も夜もがむしゃらに働き続けました。ファティマのすごいところは、日々の暮らしを「女手一つでなんとか…」という悲壮感漂うものではなく、喜びと笑いに満ちた活気あるものにしていたことです。

ファティマおばさんは、素敵な人でした。面白くて、陽気で、お茶目で、エキセントリックで、可愛くて。いつもくつろいだ様子で、笑ったり、人をからかったり、そして何しろものすごく働き者でした。(シャールクの旧友デヴィヤ)


ファティマはシャールクを溺愛しており、父親のいないことが不利にならないよう、息子のために何でもするという人でした。後年シャールクが大学に車で通いたいと言った時も、入学前には間違いなく玄関先に小さな車が届いていました。当時のインドで自家用車というのはかなり贅沢なもので、ファティマには無理な出費だったかも知れませんが、ファティマはシャールクの願いを何でも叶えてやりたかったのです。

もう一つシャールクを支えたのは、聖コロンバでの学校生活でした。シャールクはまさに今のシャールクのように、何事にも全力で取り組み、負けることが嫌いだったので、スポーツでも学業でも優秀な成績を納めました。特にスポーツには夢中で、サッカー、クリケット、ホッケーの3つのチームでいずれもキャプテンをつとめていたのです。男子校で男子に人気のスポーツ3つともでキャプテンになるなんて、そんなことが可能なのかと思いますが、実際シャールクはそういう存在だったらしいのです。体格は父ではなく母に似て小柄でしたが、人並み外れた運動神経を持っていました。特にホッケーでは、フィールドのどこからでもゴールを決められると豪語していたほどの才能で、将来は国際的な選手になることを夢見ていました。
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【13】シャー・ルク・カーン物語 [シャー・ルク・カーン物語まとめ]

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1941年に開校した聖コロンバはカトリックの男子校で、ブラザーと呼ばれる教育熱心で厳しい修道僧が教師を勤めていました。幼稚園から高校3年までの一貫教育で、眼を見張るような広い芝生の校庭があり、勉強にも課外活動にも充分な施設があります。ここに通ったシャールクにとって、今子どもたちを通わせているムンバイの学校は、あまりに狭苦しく感じるそうです。

シャールクはここで、運動に勉強にいたずらにいそしみ、13年間の伸びやかな学生生活を送りました。と言ってもブラザーたちは身だしなみにはやかましく、抜き打ちで爪や頭髪の検査がありました。シャールクは朝の集会で髪が長いと言われ、しばしば近くの床屋送りになりました。早朝、まだ店を開けてもいない目やにのついた露店営業の床屋に髪を刈られ、学校に戻ったのでした。場合によっては厳しい体罰もありました。低学年は手でお尻をぶたれ、中学年になると僧服の下に隠してある細いムチでぶたれました。高学年は手のひらにそのムチを受けさせられ、ミミズ腫れを作りました。

シャールクもしばしばムチの餌食になりましたが、それでも先生たちが大好きでした。幼稚園の担任のMiss.バラ、8年生の担任のMrs. ライ・シンは優しく、国語のMrs. ハダムは皆のあこがれの的でした。シャールクはハダム先生に気に入られたくて国語を一生懸命勉強し、先生が担当する弁論大会にも出場しました。このときにシャールクの有名なスピーチスキルが磨かれたのでしょう。

中でもシャールクに一番大きな影響を与えた先生は、高校の担任のエリック・デスーザ先生、通称ブラザー・エリックでした。ブラザーエリックは修道僧で、厳しくもありましたが話のわかるカッコイイ先生でした。クラスの仲間達としばしば先生の部屋に集まり、僧服を脱ぎ短パン姿でくつろぐ先生にニンブーパーニー(レモン水)をごちそうしてもらいながら、欧米の音楽を聞いたり、先生のギターに合わせて歌ったりしました。シャールクが洋楽に目覚めたのは先生の影響で、実は煙草を吸うようになったのもこの部屋でのことでした。

プラザーエリックはある時、実験室を新設するための資金活動として劇の上演を企画しました。「オズの魔法使い」を翻案したミュージカル「Wiz」です。演出はブラザーエリックで、シャールクは主演を演じました。本当は歌も自分で歌いたかったのですが、歌の上手な一級上のパラーシュ・センがシャールクの最初のプレイバックシンガーになりました。パラーシュは後に、インドで有数のロックバンドEuphoriaのリードボーカリストとして活躍しました。「Wiz」の上演は成功を納め、一ヶ月の興行を経て無事実験室が設けられたのでした。これはシャールクにとって最初の本格的な演劇活動でした。

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【14】シャー・ルク・カーン物語 [シャー・ルク・カーン物語まとめ]

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スポーツに、学業に、友情に彩られたシャールクの学生時代ですが、男子校だったせいか、幼児期と裏腹に女の子との縁はほとんどありませんでした。「ガウリはいつ出てくるの!」とジリジリしておられることと思いますが、ハダム先生への淡い憧れ以外のロマンスは、もうしばらく待っていただかなければなりません。

友人たちの中で、特に親してくしていたのは、次の4人です。

◆アショーク・ヴァサン…幼稚園からシャールクと一緒。現在はシンガポール在住でエレクトロニクス関係の会社の支社長ですが、学生時代は教室でいきなりビージーズを歌い出したりしたことも…。
◆ビカーシュ・マトゥール…童顔ながらすぐカッとなる熱いヤツ。テストの小論文が得意で、皆が一行くらいしか書けないのに、ヴィッキーは裏にまでびっしり書いてギャングたちを呆れさせていました。現在はソフトウェア大手のヨーロッパ支社長。
◆ラーマン・シャルマー…温厚だが、恐るべき伝染性の笑いを持つ男。父同様にパイロットになりました。
◆ヴィヴェイク・クシラーニ…かっこよくてお金持ちで、女の子にもてもて。C-ギャングメンバーの兄貴分的存在。今は親からの製油会社を継いでいます。

一番の親友はアショーク。幼い頃の運動会では、圧倒的速さで一番を駆け抜けたスポーツ万能のシャールクなのに、アショークが来るのをゴール前で待って、一緒にゴールインしほどの仲良しでした。自分でもすっかり忘れていたのに、息子のアルヤーンが幼稚園の頃、同じ事をしたのを見て思い出したそうです。

5人は悪さもしました。例えば新任の先生の授業が退屈になってきた時、シャールクが、今に通じるオーバーアクションでもって、「ううううう う、ああああ、ぐぐぐぐ」と急に悶絶し、ばったり倒れます。オロオロする先生に仲間たちがすかさず、「彼、てんかんの発作を持っているんです。」と説明して、4人でシャールクをかついで教室からとんずらする…という手はず。そのまま仲間たちに運び出され、後は芝生に寝っ転がって自由を満喫しました。

あるとき、いたずらものが 「靴の匂いを嗅がせると治るって言いますよ!先生、どうかこいつの命を助けてやってください!」と先生に靴を脱がさせます。シャールクは先生の臭いスエードの靴の匂いをかがされながらも、目を開けるわけには行きません。先生はその日一日中、片足でぴょんぴょんはねていたそ うです。

12年生の頃、映画「グリース」に出てくるジョン・トラボルタのチーム、Tバードに刺激を受け、いつもの仲間たちとグループ、C-Gangを 結成しました。C-gangのCは、彼らのクラス名とCoolのCから取りました。わざわざパウチしたメンバーズカードなんか作ったわりには、特に何をするでもなく、ただつるんで背伸びして「Yo, Hang Loose!」とか何とか口走っていきがっていただけみたいです。

裕福なヴィヴェイクの父親がアメリカで買ってきた揃いの白いシャツに、自動車のエンブレムで作ったCのスタンプを押したもの、ブルージーンズにナイキのシューズがユニフォームでした。あの頃ナイキのシューズなんて、インドではすごく高価だったはずなので、皆結構なお坊ちゃまだったっんでしょうね。母ファティマも無理して買ってやったのでしょうか。

この5人は、今もシャールクの心の支えみたいです。忙しいので連絡を取れないことも多いけれど、会えたらその瞬間に通じ合える関係。お正月のカランの番組で、シャールクは「僕には友人はいない」という孤独な心情を吐露しましたが、良い友達がいるじゃないですか。この番組の後、ラーマンが早速シャールクを訪ねていました。

ちなみに、このC-ギャングの面々はちょいちょいSRK映画に端役で登場します。Om Shanti Omの屋外ロケのシーンでのディピカちゃんの相手役スターがラーマンで、アシスタント・ディレクター役がヴィヴェイクでした。若白髪のヴィヴェイク何となくロッド・スチュワート似で(上岡龍太郎とも思えるけど)スターパワーがあります。女の子にもてるのわかる気が…。


C gang
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