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【9】シャー・ルク・カーン物語 [シャー・ルク・カーン物語まとめ]

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印パ分離政策に反対したため、パキスタン政府のブラックリストに載っていたミールは、長らく故郷に帰ることができませんでした。姉が亡くなったときも、”Brhamachari”というあだ名を持つ大好きだった兄が亡くなったときも帰郷を望みましたが、ビザの申請は却下されてしまいました。

Brhamachariとは古代インドのヴェーダに規定されている人生の4つの時期の一つ「学生期」に由来します。
 「学生期」「家住期」「林住期」「遊行期」とあるうち、思春期頃から結婚するまでの間の時期を指す言葉で、禁欲期とも言われます。

ミールの兄弟のBrhamachariは生涯結婚せず、人前で歌ったり女装をしたり物真似をしたりと芸事が好きで、親族の中では異色の存在だったそうです。ミールや親戚たちは、シャールクが誰よりもこのBrhamachariの血を引き継いでいると思っていました。

70年代後半になって、「家族の全員が亡くなる前に帰国を認めて欲しい」というミールの再三の懇願がようやく功を奏し、パキスタンへの入国ビザがおりました。1978年、ミールは12歳のシャールクを連れ、30年前に歩いてデリーへ向かったその道を、今度は鉄道で逆に辿ったのでした。アムリトサルから小さな国境の町アタリへ行き、緩衝地帯を歩いて横切ってパキスタン側のワガーで入国する…これが当時唯一のインド・パキスタンの国境越えルートでした。

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シャールクは、初めて出合うペシャワルの親戚たちに暖かく迎えられました。Haveliという形式の複合住宅に、何世代も何家族もが一緒になって賑やかに暮らしていました。シャールクは同年代の従兄弟達とたちまち打ち解け、カージャル(黒いアイライン)を入れ、髪に花を飾って女の子の格好をして踊ったりしてバカ騒ぎを楽しみました。色白で美しい従姉妹たちは、外出の時には顔を隠していましたが、家の中ではお化粧をして着飾っていました。シャールクは皆と一緒にバザールへ行ったりパキスタン映画を見たり、アフガニスタンのカイバル峠やカブールにまで観光に出かけたりして一月程を過ごしたのでした。
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2年後、シャールクとミールは再びペシャワルを訪れました。ローカル列車の長旅、予約なしで行き当たりばったりに泊まる安宿…ミールとの旅はいつもどちらかと言えば快適とは言いがたいものでした。しかも今回のペシャワル訪問は、前回のように屈託なく楽しめるものとは全く異なっていました。ペシャワルの親戚たちは、ミールの生家の資産の相続権を放棄する書類にサインさせるためにミールを呼び寄せたのでした。子どもだったシャールクは後に父親の友人から聞かされるまでそんなこととは知りせんでした。ただ、父親が寡黙で、ときに怒りの表情を見せることをいぶかしく思っただけでした。誠実で優しいミールにとって、故郷に戻りたい、家族に会いたいという長年の悲願がようやく叶えられた末に、このような形で肉親から分離を求められた悲しみはどれほど深かったことでしょう。

ペシャワルの従兄弟たちは今のシャールクを誇りに思い、子どもにシャー・ルクと名づけたりしています。シャールクも彼らが訪ねて来れば大切にもてなしますし、「父親がペシャワル出身で半分パタン人の血を引いていること」を誇らしげに度々口にします。しかしシャールク自身はこのとき以来、二度とペシャワルを訪れていません。多忙なせいかも知れません。あるいは「良くない感情が伴うものや場所、人からはなるべく遠ざかるように」という母の教え、「僕は人をすぐに許すが、決して忘れはしない」などの言葉からシャールクの心情を伺うことができるかも知れません。

さて、デリーに戻り、再び日々の暮らしが戻ってきたある日、仕事から帰ってきたミールは家族にこう言いました。

"Yaara, doctor saab kah raha hai mujhe cancer hai"


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《続く》

《おまけ》

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ここで言っておきたいんだけど、僕の父親は実はパキスタン人なんだよ。ペシャワル出身でね。だから僕もパタン人なんだ。そんな感じしないけどね。体格が貧弱で。でもパタン人だよ。多少身長が不足してはいようとも。

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